もしも個性學が無かったら。
第一に言えることは、対人問題や不安解消に有効な方法を見つけ解消するために、莫大な時間と労力を費やす可能性があるということです。
具体的には私自身、この4月から職場環境が大きく変わり、今まで以上の広範囲の知識とスキルを求められ、社外取引先は私より高いレベルの知識、スキルを持つ相手となります。
自分の方が業務レベルが下という立場で相手から信頼を得て一つの目標に向かってともに業務を進め指導していく状況に恐怖と不安しかありませんでした。
個性學が無ければそのような恐怖と不安に押しつぶされたまま新しい業務を覚え、環境に順応する必要があり、まともに仕事を進めること自体難しかったと考えます。
また人と相対する時、相手の個性をあらかじめ知ることができる手段があるというだけで大変心強く、何かあっても対応策はあるはずと思うと強みに感じます。
さらに仕事面に限らず、家族や身近な人の個性を調べることができなければ独自の解釈だけで認識し続け、仮に認識誤りがあっても気付けないままということが起こり得ます。
人は自分の目を通して受け取った人物像で判断し、何となく感じ取ったものを改めて言葉にしようとすると表現が難しく「何となく」と曖昧にしがちだと感じます。
個性學でははっきりと表現されています。
人を理解することを通して、自分のことをさらに深く理解することができるため、過去の悲しい出来事、辛い出来事をあらためて認識し直し、自分の感情をクリアにすることができないままだったかもしれません。
第二に、個性學では「お互いを認め、その中で維持や破壊を繰り返すことで進歩しながら、和を創る」とあります。
3分類がお互いの力を借りて協力し合う世界になったら、「自分の役割がわからず誰からも必要とされない、愛されていない」と感じる必要がなくなると思いました。全ての人がです。
自分の役割を認識し、自分に自信を持ち、本来の力を発揮する。
個性學が無ければ、そんな世界になれるとも、なって欲しいとも思わなかった、思えなかったかもしれません。
たくさんの人が「生き生きと笑顔で暮らし、毎日やりたいことがあって楽しくてしょうがない」と思えるような世界になるよう、より多くの人に知ってもらう必要があると考えます。
自分の役割がわからず「必要とされていない、誰からも愛されていない」と誤認識している人を一人でも減らし、穏やかで愛にあふれた世界にするために、まずは自分の中で落とし込み活用できるようにしたいと思います。
(会社員、30代女性、人志向)